内府(徳川家康)をこそ、このようにしてやろうと希うておったものを。, 伊達政宗 //


偉人たちの名言は、心にとっては”薬”でもありますよね。そんな名言を集めることで”心の常備薬”になれば幸いです。, 甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。. 心の常備薬 , 武将・, 山本 五十六 また、晩年の信玄は、戦没者の仏事供養のほか、すべての家臣のために「七難即滅・七福即生」を唱え、その後に春日虎綱・土屋昌続・曾根昌世・三枝昌貞・真田昌幸の5人のために、1人につき100遍ずつ不動の呪文を唱えていたというが、のちに思い出話となった時、昌幸と春日虎綱は互いに号泣したという。 (『甲陽軍鑑』), 天正4年(1576)の春、勝頼が遠江・高天神城の兵糧入れのために遠江国城東郡まで出陣、家康は横須賀城に大須賀康高を籠城させてこれを阻止しようとした。 戦国時代から安土桃山, 源義経 日本の武, 織田信長 平安時代末期の武将. 2016 All Rights Reserved.

また、幸と幸村はその後、居城の上田城に向かうが、その途次で夜中に信幸の居城・沼田城に立ち寄り、密かに乗っ取ろうとした。ところが留守を守る信幸正室の小松姫が出てきて、対峙する構えを見せたため、城に入ることなく沼田から去っていったという。(『真武内伝』)。, 関ヶ原時、石田三成からの誘いを受けた昌幸は、信濃と甲斐を恩賞として与えられる約束を得ている。, 実のところ、昌幸は信玄が誕生した甲斐国を隠居場所にしたいと考え、同国を所領化することが念願だったという。(『長国寺殿御事蹟稿』)。, 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の敗退により、昌幸は幸村とともに高野山追放が決定した。 そうして、兵糧や飼い葉も尽き果てて疲労困憊したところに武装集団が出現した。昌幸らは身構えたが、彼らは昌幸一行を心配してやってきた沼田衆や湯本、鎌原、横谷、西窪ら吾妻衆らであった。 こうして昌幸一行は無事に岩櫃城にたどり着いたという。(『滋野世記』), また、他説には、向かった先が真田郷であり、真田一行には昌幸の姿はなく、真田の人質が自力で脱出したとみられる話もある。それによれば、真田の人質は、昌幸の正室・山之手殿・嫡男信幸・次男幸村をはじめ、家来や与力も合わせて300余人であったという。そして信濃の本領・真田郷を目指し、不穏な情勢の下で100人ほどに減ってしまうが、真田母子は家来に守られて無事に真田郷にたどり着いたという。 (『古今沼田記』), 勝頼が自害したことを聞いた昌幸は「わしが付き従っていたら、小山田信茂に欺かれることなどなかったのに。」と嘆き、仇討ちのために小山田討伐の兵を挙げようするが、家来に諌められたという。(『古今沼田記』『長国寺殿御事蹟稿』), 天正壬午の乱の和睦条件で、北条方へ沼田領を引き渡すというものが含まれていたが、昌幸は家康からその要請を受けても全く応じていなかった。そこで家康は、天正12年(1584)に昌幸暗殺を計画し、鳥居元忠を介して信濃小県郡の国衆・室賀正武に計画の実行を命じたという。昌幸はすでに室賀家中を調略していたため、暗殺計画を事前に察知しており、上田城に招いて返り討ちにしたという。(『加沢記』), 天正13年(1585)、天正壬午の乱の和睦条件に沿って、北条氏直が家康に沼田領の引き渡しを要請してきたため、家康が本腰を入れて沼田領の引き渡しを昌幸に命じてきたときのこと。, このとき昌幸は「沼田は家康から与えられたものではなく、真田が自ら確保した領地だ。今度、忠節による恩賞の約束も守られていないのだから恨みにすら思っている。その上、沼田を北条に渡せというのは、思いもよらない話だ。」と拒絶し、「主君とは仰ぐものか」と吐き捨てたという。(『三河物語』), 昌幸は、信玄の存命中には絶対の忠誠を誓い、そして敬愛していた。それは天正13年(1585)に、自領・真田郷内に信玄の墓所を再興しようとするほどであった。, 関ヶ原の合戦の直前、下野国・犬伏(栃木県佐野市)で東軍西軍のどちらに味方するのかを密談したという「犬伏の別れ」。その密談の経過は諸説あるが、結果的に昌幸と幸村が西軍の石田方に寝返り、信幸が東軍の徳川方に残ることで敵味方に分かれたという。 :

スポンサーリンク 1545年 - 1573年9月26日 この戦いで豊臣方の撤退戦となったとき、幸村隊は追撃を仕掛ける伊達政宗の軍を相手に殿を務めた。そのとき、幸村は上記のセリフを言って嘲笑しながら馬に乗り、悠然と撤収したといわれている。, 最終決戦となった天王寺決戦で、幸村が家康本隊に討死覚悟の突撃を敢行した際、その凄まじさに家康が切腹を覚悟したほどだったという。, 幸村の死後、その武勇は徳川方からも称賛された。このため、豊臣滅亡後の幸村の首実検では多くの武将が見物に訪れたという。また、家康は「左衛門(=幸村)にあやかれよ」と言い、幸村の武勇にあやかりたいとして彼の頭髪を抜いて持ち帰る者が絶えなかったともいう(『名将言行録』『真武内伝追加』), 幸村が生前に歯が欠けていたことを知っていた家康は、幸村本人であることを確認するため、西尾仁左衛門に歯が欠けているか確認させると、確かに歯が欠けていたという(『落穂集』)。, また、家康は大阪の陣で2度も幸村と会った真田信尹を呼び、本人かどうかを確認させた。しかし、信尹は見分けがつかずに困惑した。家康が詰問すると、信尹は「幸村と会ったときは夜中であり、幸村は用心していて遠くから話をしただけだった」と弁明したという(『慶長見聞書』など)。, 兄・信之は、幸村の性格について「物事に対して柔和で忍耐強く、無口で怒ることはなかった」と述べている。(『幸村君伝記』), 後藤又兵衛配下の長沢九郎兵衛は、大坂の陣での幸村の容姿について、「44~45歳に見え、額や口に2、3寸の傷跡があり、小兵なる人」と述べている。(『長沢聞書』), 文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から "幸村" の名についての問合せを受けた松代・真田家氏は「"信繁" と把握している。"幸村"という名は彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答しているといわれている。また、後の物語などで語られるうちに"幸村" の名が定着したとも考えられており、諸説ある。, All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止, 「かつてない大虐殺が行なわれ、その光景は鉛の涙を目にするのと同じくらい信じられないものだった」, 通説:西尾と出くわしたとき、幸村は戦続きで負傷してくたびれ果てていて、まともに戦うこともできずに討ち死にしたという(『細川家記』), 新説:両者は馬に乗っていたところで出くわし、ともに下馬して槍を合わせて戦ったが、西尾は相手が幸村だと知らず、ついに兜をかぶった幸村の首級を掻きとり、その首級を陣屋に持ち帰ったという(『松尾文庫』内の記述)。. 1159年 - 1189年6月15日

公開日: 日本, 三浦按針 元亀元年(1570)、武田信玄が伊豆に攻め込み、北条氏政の軍勢が出陣してきたのに対し、信玄は「決戦を行って氏政を蹴散らし、小田原まで侵攻しよう」と家臣らに提案したが、馬場信春が、「敵味方の配置や、地形を見極めてから決断した方がよいのでは」、と信玄を諫めた。すると信玄は、「それ … 高野山への出発のとき、昌幸は長男・信之と別れ際に、「それにしてもまあ悔しい限りじゃ。内府(=家康)こそ、このような目にあわせてやろうと思ったのに・・」と言い、悔し涙を流したという(『長国寺殿御事蹟稿』)。, 九度山での生活は、借金をして国元に金銭を催促するほど貧しかったため、昌幸・幸村父子は生計をたてるために "真田紐" という木綿の紐を作ったという。(『長国寺殿御事蹟稿』), 昌幸は死の間際、3年後に徳川と豊臣の決戦が勃発することを予言して、徳川攻略の策を伝授した。そして3年後、昌幸の言う通り、大阪の陣が勃発したという。(『名将言行録』), 昌幸の葬儀に関して、信之が家康の側近・本多正信に尋ねたが、正信は昌幸は重罪人であるから幕府の意向を確かめてから対応するようにと忠告したという。, 徳川家康は大坂冬の陣(1614年)において真田が大坂城に入城した知らせを受けると「親の方か?子の方か?」訊ねたという。これは家康が「謀将」昌幸の病死を半ば疑っていたことを示唆しており、そのときの家康の手はがたがた震えていたという。実際は昌幸ではなく、当時は無名の信繁(真田幸村)と知って安堵したとも伝わっている。, All Rights Reserved, Copyright © sengoku-his.com 2020 無断転載禁止, 真田丸での記憶も新しい!?昌幸の死後も、因縁の相手・徳川家康も苦しめたという逸話は必見だ!, 「それにしてもまあ悔しい限りじゃ。内府(=家康)こそ、このような目にあわせてやろうと思ったのに・・」. 1570年3月8日 - 1615年6月3日 1534年6月23日 - 1582年6月21日 天正10年(1582年)、信長死後の武田旧領争奪戦において、織田家臣の滝川一益は伊勢国までの逃亡過程で、佐久・小県郡の国衆らより人質を集めたが、この中に幸村と祖母の河原氏が含まれていたという。さらに木曾郡の木曽義昌が滝川一益一行の通行を拒否した際、一益は幸村ら人質を木曾氏に引き … そして家臣らが "両眼" とは誰なのか、怪しんでいると、昌幸と曾根昌世の2人が帰陣してきて、地形が武田に有利なことを報告したという。(『甲陽軍鑑』), 元亀元年(1570)、信玄の命で上方方面の情報収集から戻ってきた長遠寺という一向宗坊主が、上方各地の部将から信玄に味方する旨の書物を取って来て、それらを信玄に差し出されたとき、信玄は土屋昌次・真田昌幸、曾根昌世、三枝昌貞の4名のみを連れて御幡屋(=家伝の御旗を安置する建物)に入り、信頼する7人の将を呼び寄せて談合したという。(『甲陽軍鑑』), 軍功に関する訴訟の奉行は、真田昌幸・曾根昌世・三枝昌貞・今井新右衛門だったという。(『甲陽軍鑑』), 昌幸は、信玄から武田家の将来を担う柱石の1人と考えられていたという。 刀の目利きをしていた若侍の一人が、山伏の正体を知らずに幸村を呼びとめて刀や脇差を見せるように要求してきた。彼らは山伏の割に見事な刀を持っている幸村に疑念を抱いていると、そこに大野治長が登場。正体が真田幸村だということに気付く。 安土桃山時, 大山巌 真田昌幸 戦国大名の庇護がなければ生き残ることが難しい戦国時代。 ... そこで、今回は『真田丸』の名言をピックアップしてみました。大きな力に頼ることなく、自力で運命を切り開いてきた真田家の面々の言葉から学ぶことは少なくないはずです。 1564年9月24日 - 1620年5月16日 出羽国と陸奥, 真田幸村 このほか、幸村に従った者の中には、高野山の地侍等がおり(『九度山町史』)、九度山近辺の猟師数十人も参じていたことから、大坂の陣における真田の鉄炮衆は百発百中だったという。(『鉄炮茶話』ほか), 大阪入城の際、山伏の格好で「伝心月叟」と名乗っていた幸村が、豊臣方の大野治長の屋敷を訪れたときのこと──。 武田の軍勢は横須賀へ向かう行軍の際、家康を怖れて塩貝坂を通らずに浜辺を通ったため、その兵糧の備えは信玄のときと比べてはるかに劣っていた。しかし、昌幸だけは1000余の隊で、さほど怖れることなく山中を通っていったという。(『名将言行録』), 昌幸が沼田城を奪取し、沼田支配体制を進めていた天正9年(1581)、この地を旧領としていた沼田景義が挙兵し、沼田城に攻め寄せてきた。このとき沼田城には景義の叔父・金子美濃守がいたが、昌幸はこの金子に大幅な加増を約束して景義暗殺を持ちかけた。そしてこれを承諾した金子は、沼田景義を欺いて沼田城におびき寄せて謀殺してしまったという。(『加沢記』ほか), 天正9年(1582)、信長による武田征伐がはじまり、追い詰められた武田方は新府城での最期の軍議を開いた。このとき昌幸は、自ら支配する・岩櫃城への避難を勝頼に提案したといい、勝頼も一旦それを受け入れたため、準備のために先に急いで岩櫃へ戻ったという。(『真武内伝』)