敷島型の3番艦。敷島同様、3本煙突を持つ。明治34年に竣工。日露戦争では第一艦隊第一戦隊に編入されて旅順封鎖作戦に参加したが、八島同様に明治37年5月15日に機雷に触れて沈没した。初瀬は立て続けに2発の機雷に触れたこともあり、わずか2分で轟沈した。 ここでは史実での大和型戦艦について取り扱う。 同年3月26日、第一甲鉄戦艦は敷島と命名される[3][12]。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/25 09:27 UTC 版), 1896年(明治29年)の第10議会で可決した第二期拡張計画により建造された戦艦4隻(敷島、朝日、初瀬、三笠)の第1艦[6]。イギリス・ロンドンのテムズ鉄工造船所で建造された[7][8]。 そもそもは1934年の時点で竣工から20年近く経った戦艦長門と戦艦陸奥の後継艦と、旧式化しきった扶桑型戦艦や金剛型戦艦の代替を兼ねて、新世代戦艦として計画が開始された艦型である。日本海軍は本型を次世代戦艦のスタンダードとなるベース艦として設計していた節があり、実際に1940年代を迎えた頃に大和型をベースとする改良発展型が数種ほど計画され、砲の試作まで進んだ。当初の計画では最終的には本型を5隻揃えた後、改良発展型3隻を連合艦隊中核に添え、戦艦戦力を新世代艦で統一する計画であったという。

言わば、三笠を日本海軍栄光の象徴とするなら、大和は日本海軍落日の象徴と言えるだろう。, 一番艦・大和 二番艦・武蔵 三番艦・信濃(→航空母艦へ改装) 四番艦・111号艦(未成), 上記のように、大和型戦艦が取り上げられる場合、大抵は1番艦大和がほとんどで、つい最近になって武蔵もちょくちょく出てくるようになった。 『艦隊これくしょん』に登場する大和型はこちらへ。, 大日本帝国海軍が建造した戦艦の最新最後の艦型。基準排水量65,000t、主砲口径46cmともに世界史上最大の戦艦。航空母艦を除いた水上戦闘艦としては今もって世界最大の艦型でもある。 3月29日、敷島はイギリスのテームズ鉄工所で起工された[13]。, 1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義[14]。該当する4隻(富士、八島、朝日、敷島)が一等戦艦に類別された[15][4]。 8月10日、黄海海戦に参加[5]。 1900年(明治33年)1月26日、竣工[5]。1月27日、日本に向け回航[16]。4月17日、呉に到着[5]。 が、信濃が出てくることは全くと言っていいほどなく、ましてや111号なぞ見る影もない。 敷島 (戦艦) 敷島 (戦艦)の概要 ナビゲーションに移動検索に移動艦歴計画1896年(明治29年)度建造所テムズ鉄工造船所起工1897年3月29日進水1898年11月1日竣工1900年1月26日除籍1945年11月20日その … 昭和30年代の映画『戦艦大和』などの戦記ブームから、昭和50年代のSFアニメブーム時代の『宇宙戦艦ヤマト』を経て、平成初期に流行した仮想戦記に至るまで多数の人気作品で、大和型及び大和型の発展艦が主役級の兵器として扱われた。これにより大和は零戦と並ぶ日本技術の最高峰、栄華を誇った旧日本海軍の悲劇の象徴として認知されているが、同時にやや史実に詳しい向きには大和型戦艦を時代遅れの大艦巨砲主義の権化、日本海軍の失敗の象徴と捉える見方も広がり、大和を手放しで賞賛することに批判的な意見も少なくない。 こうして、開戦前に4隻が起工したが、開戦後は急激な空母戦力の発達により戦艦の存在意義が薄れた(マレー沖海戦で「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」が撃沈され、空母が今後の主戦力となることがはっきりした)ため、当初の計画通りに竣工したのは1番艦大和と2番艦の武蔵の2隻にとどまった。3番艦の信濃は建造途中で航空母艦へ改装され、4番艦は進水もすることなく建造中止となった。(資材は伊勢の航空戦艦化や損傷艦の修理用に転用された) ・・・と思いきや?, 大和型が超大型直接教育艦として登場する本作だが、TVシリーズで登場した武蔵と、なんと信濃と111号艦改め「紀伊」を含めた全4隻が登場する。 d. 就役後他艦種に類別変更   e. 起工済未成艦   f. 特別輸送艦として竣工, 敷島 (戦艦)のページの著作権Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。, ビジネス|業界用語|コンピュータ|電車|自動車・バイク|船|工学|建築・不動産|学問文化|生活|ヘルスケア|趣味|スポーツ|生物|食品|人名|方言|辞書・百科事典, 『日本戦艦物語I』による。ただし括弧書きで記載され、その説明はない。『昭和造船史』では空欄となっている。, All text is available under the terms of the. 1945年(昭和20年)11月20日、除籍。, a. 大和型戦艦がイラスト付きでわかる! 大日本帝国海軍が有した戦艦のうち最後の艦型。 ここでは史実での大和型戦艦について取り扱う。 『艦隊これくしょん』に登場する大和型はこちら>大和型へ。 概要 大日本帝国海軍が建造した戦艦の最新最後の艦型。

詳細は作品項目およびハイスクール・フリートの登場艦艇一覧を参照。. しかし、大和型の設計の最大の優秀性は、46cm砲9門を搭載した割に艦体がとてもコンパクトにまとめられていた点にある。またこの巨体でありながら旋回性も非常に優れていた。 4月30日、神戸港沖合で観艦式がおこなれ、明治天皇は本来の御召艦「浅間」から「敷島」に一時移乗した[17]。, 1904年(明治37年)、第一艦隊第一戦隊所属で日露戦争に参加[5]。2月9日から旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦に参加。

日露戦争では主力艦として旅順口攻撃、旅順港閉塞作戦、黄海海戦、日本海海戦と主な作戦に参加した。, 旧式化により、1921年(大正10年)9月1日附で海防艦に類別変更される[9]。第一次世界大戦後のワシントン軍縮会議により兵装、装甲の全てを撤去[5]。練習特務艦[10]となり佐世保港に繋留、使用されていた。太平洋戦争終戦時は推進器が撤去され佐世保海兵団所属の練習艦として相ノ浦に無傷で繋留されていた。1947年に佐世保で解体された。, 1897年(明治30年)、日本海軍はイギリスで建造予定の第一甲鉄戦艦の艦名について敷島または白根を検討していた[11]。 また大型艦であるために必然であるが、一度動けば莫大な燃料を消費する。ただし、最高速力27ノットと最高速度を(日本艦にしては)控えめにしたこと、翔鶴型航空母艦に次ぐ球状艦首などの新機軸の導入により、大型艦の割には低燃費であったという。 1923年(大正12年)4月1日、3隻(敷島、朝日、須磨)は軍艦籍より除籍[5][26]。 これら大和型の活躍シーンが本作の見どころの一つといえる。 建造中に空母へ改造された信濃も、就役後わずか10日で回航中に撃沈されてしまう結果となった。姉妹艦のすべてが(戦艦の本来の目的である)敵艦隊との砲撃戦の機会をほとんど得ることなく(レイテ沖海戦では大和が主砲で敵の小型空母を含む艦隊を砲撃している)、航空機や潜水艦で引導が渡されたため、日本では大和の沈没を以って、戦艦が主役となる大艦巨砲主義思想に止めが刺されたとされる場合が多い。, 当時は日本海軍最高の機密として扱われたが、海軍が解体され、情報開示された戦後は広く知られフィクションで頻出する。 軍事的に「戦艦」の存在自体が過去の遺物として消え去った現在、おそらくは今後とも破られることはないだろう。

1905年(明治38年)5月27日、28日、敷島は姉妹艦(三笠、朝日)等と日本海海戦に参加[5]。, 1909年(明治42年)5月29日、明治天皇皇太子(大正天皇)と妃が横須賀軍港に行啓する[22]。皇太子夫妻は逸見波止場から敷島に乗艦した[23]。斎藤實海軍大臣、軍令部長東郷平八郎大将、第一艦隊司令長官伊集院五郎中将が同行した[24]。敷島は観音崎方面に出動し、皇太子は敷島艦内や訓練を視察する[24]。同行艦は、軍艦日進と第3駆逐隊(春雨、皐月、文月)であった[24]。同日夕刻、皇太子夫妻は退艦して皇居にもどった[24]。, 1921年(大正10年)9月1日、日露戦争時の主力艦艇は海防艦に類別され、敷島も一等海防艦となった[25][9]。

5月15日、第一戦隊司令官梨羽時起少将(旗艦初瀬)の指揮下艦艇(初瀬、敷島、八島、笠置、龍田等)は旅順港外の老鉄山沖を行動中[18]、初瀬と八島がロシア海軍の機雷に触雷して沈没した[19][20]。敷島は戦場を離脱した[21]。 艦艇類別等級表からも削除[27][28]。2隻(敷島、朝日)は練習特務艦に類別される[29][10]。武装も除去された[5]。, 1925年(大正14年)から佐世保に定繋された。 最大の問題は、海軍が本艦を有効活用する戦術を欠いていたことであり、太平洋戦争自体が航空戦力主体に移行し艦隊決戦の機会自体を逸したまま温存されたことで、ほとんど実戦で真価を発揮できないまま、無為に沈めてしまう結果となった。 1942年7月1日までに除籍もしくは他艦種に類別変更   b. 戦艦追加されるのはいいが、日が敷島型戦艦と河内型戦艦らしい。河内型戦艦はまだいいとして 敷島型戦艦の連装砲2基で戦えるのか。というか爆撃機の餌にしかならんだろう。BR1とかになるのかなこれ 不安しかない . 1931年5月30日等級廃止   c. 1912年8月28日三等廃止、二等に類別換え ‚éB–‹––‚ɍ²‰ê”Ë‚ªw“ü‚µA‘ä˜pª“¢‚␼“ìí‘ˆ‚ÉŽQ‰Á‚µ‚½“ú–{‰‚̏„—mŠÍu“úiŠÛv‚Æ“¯–¼B.

6万5000トンもの巨体なだけに安定性と凌波性には特に優れており、強風や荒波での戦闘は有利だったと思われる。自身の主砲に耐えてなお余りある装甲の厚さ、魚雷の直撃を受け止めるべく艦底まで延びた水中防御区画の設計は、他に並ぶものがない。 しかしながら、舵の追従性がはなはだ悪く、転舵後舵が効き出すまで1分以上を要した上に、主舵と副舵を装備したものの副舵だけでは旋回ができず、主舵の損傷で旋回が困難になる可能性がある(実際に大和沈没時には魚雷攻撃で舵を損傷し左側にしか旋回できない状態に陥った)などの欠点も抱えていた。大和型戦艦の副舵が実質的に機能しなかったため艦首にも副舵を取り付けることが検討されたが、実現しなかった。 資料番号-022021 籾山艦船模型製作所作品写真集成:第三集(日本海軍戦艦、空母、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦) 「収納写真一覧」 (1)戦艦「敷島」 Builder's Model 修理 大和型もまた、居住性を重視せず攻撃力を高め、英米の艦艇に優位に立つという日本海軍の設計思想の系譜にあたるが、さすがに巨大な艦であり余裕があったためか居住性には定評があった。 同年11月1日、進水[5]。