国民全てにお報せしたい情報を    All Rights Reserved. パラオ共和国における日米激戦の遺物を訪ねた読売新聞社の写真特集。パラオ大空襲やペリリュー島の玉砕戦などでは、両軍の約18000人が戦死した。 名も無き国民の声, パラオといえばなんといってもKBブリッジ崩壊のやらかしが有るのに、よくペクちょん共は恥知らずにもせよ顔を出せるもんだな。, 2. 名も無き国民の声, 14.  右ノ場合「サクラ」ヲ連送スルニ付報告相成度, 11月24日にはついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、アメリカ軍が司令部壕から10数mまで迫ると、司令部は玉砕を決定、中川は第14師団に「1、敵ハ22日来ワガ主陣地中枢二侵入、昨23日各陣地二オイテ戦闘シツツアリ本24日以降特二状況切迫陣地保持ハ困難二至ル」から始まり「4、将兵一同聖寿ノ万歳三唱皇運ノ弥栄ヲ祈念シ奉ル 集団ノマスマスノ発展ヲ祈ル」「5、歩2電171号中ゴ嘉尚ヲ11回ト訂正サレタシ」で締めた決別の電報を発信させた[99]。, 中川はわずかに生き残った将兵を集めると「根本大尉の指示で各個の遊撃戦を継続するよう」という訓示を行い[100]、司令部地下壕内で第14師団派遣参謀村井権治郎少将と、逆上陸して最後まで中川と行動を共にした歩兵第15連隊第2大隊長の飯田の3人で自決を遂げた。司令部の通信隊員久野馨伍長は、中川らが自決に向かうのを見て、通信電源の中途断絶も覚悟して最後の電文を打電した[101]。, サクラサクラサクラ ワガシユウダンノケントウヲイノル ワレクノゴチヨウ ワレクノゴチヨウ, この電文を受信した第14師団通信隊無線分隊伊藤敬人分隊長以下の分隊員たちは、11月22日の「右ノ場合「サクラ」ヲ連送スル」という電文から、この「サクラサクラサクラ」がペリリュー守備隊最後の打電だと認識して、抱き合って泣いたという[102]。残された根本は、55名の残存兵力を率いてアメリカ軍飛行場破壊を目的に夜襲をかけたが、殆ど徒手空拳でありアメリカ軍陣地を突破することはできず、11月27日には全員玉砕した[103]。, こうして日本軍の組織的抵抗は終わり、11月27日、ついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなった。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は「ペリリュー島で、予定を大幅に超過したものの、敵の組織的抵抗を崩壊させて、作戦を成功に導けたことに心からお祝い申し上げる。」と第81歩兵師団(ワイルド・キャット師団)に労いの言葉をかけたが、第1海兵師団リュパータス師団長の「激しいが短い、長くて4日」の作戦は結果として73日もかかったことになった[104]。, 戦闘終了後、ワイルド・キャット師団の兵士が、最後の最後まで激しく抵抗した日本軍の司令部壕に恐る恐る入ると、中川大佐と村井少将の遺体を発見した。二人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬された。ワイルドキャット師団のペリリューの戦闘報告書には「日本軍守備隊は、祖国のために、全員忠実に戦死せり」と書かれた。, ペリリューから撤退した第1海兵師団はパヴヴ島で休養と再編成中であったがその中にはリュパータス師団長はいなかった。個人的に親しいヴァンデグリフト海兵隊総司令の配慮により海兵隊学校の校長に任命されアメリカ本土に帰還していた。実際は第一線の実戦部隊指揮官からの明らかな更迭で、リュパータスの軍歴の終わりを意味していたが、ヴァンデグリフトはかつての部下のプライドを慮り、ペリリュー島での労を労う意味合いで作戦功労勲章を授与した。しかし第1海兵師団の中でリュパータスの離任を嘆くものはほとんどいなかった。リュパータスはその後、ペリリューの回顧録を書く間もなく、後任の師団長に率いられた第1海兵師団が沖縄に向かっている途中の1945年3月26日に心臓発作で急死している[105]。, ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞11度、上級司令部から感状3度が与えられ、中川は死後に2階級特進し陸軍中将となった。, 司令部全滅後も他の陣地に籠っていた関口中尉以下50名がアメリカ軍の掃討作戦をかわし遊撃戦を展開した。1945年1月には関口中尉が戦死し、山口少尉を最高位として34名が生き残った[106]。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると、奪取したU.S.M1カービンを使いやすいように改造して武装したり、アメリカ軍の軍装を洗濯工場から奪取して着用するなど[107]、アメリカ軍から奪取した物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年4月22日に第四艦隊参謀長澄川道男少将の誘導により米軍に帰順した。この生き残りの34人は後に「三十四会」(みとしかい)という戦友会を結成している[108]。最後の一人が2019年11月4日に亡くなった[106]。, アメリカ海兵隊の評価は「日本軍はアメリカ軍に多大な犠牲を負わせることによって、長期に渡る遅滞・流血戦術を実行することに成功した。ペリリューで被った多大なコストは、日本に向けて太平洋を進む連合軍に大きな警鐘を鳴らした。海空で圧倒的優勢であり、莫大な量の艦砲射撃やナパーム弾を含む爆撃と4倍にもなる兵力差であったにも拘わらず、日本兵1名の戦死ごとにアメリカ兵1名の死傷と1,589発の重火器および小火器の弾薬を要した。この戦いは数か月後には硫黄島と沖縄での、日本軍の見事に指揮された防御戦術に繋がることとなった。」と中川大佐による、アメリカ軍になるべく多くの出血を強い、長い期間ペリリュー島に足止めする作戦が成功し、日本軍の頑強な抵抗が、後の硫黄島戦と沖縄戦の前哨戦となったと評価している[109]。, アメリカ軍内では日本軍の頑強な抵抗への評価が高い一方で、ペリリュー島攻略のメリットがその莫大な損失に見合うものだったのか?と言う疑問が今日でも投げかけられている。, 陸軍第323連隊が無血占領したウルシー環礁が天然の良港で、ペリリュー島より遥かに基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な前線基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となった。一方、当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援ができるようになったのはダグラス・マッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後のことであり、その時点では大きな戦略的価値を失っていた。そのため、アメリカ国内においても、ペリリュー戦はほとんど顧みられることはなく、同時期に行われたフィリピン戦やヨーロッパ戦線のマーケット・ガーデン作戦などのニュースが新聞紙面を飾っていた。第1海兵師団戦史担当者も「激しく戦って、たくさんやられて、見返りが少ない。第一海兵師団ではいつものことだよ。」と自虐気味に振り返っている[110]。, アメリカ軍高官の中でも第3艦隊のウィリアム・ハルゼー提督が「(パラオの攻略は)あまりに価値に見合わない対価を払わされたと考えている。」と当初からペリリュー島を含むパラオ攻略に反対であった自分の考えは正しかったと主張し、上陸部隊を艦砲射撃で支援したオルデンドルフ少将も「パラオ攻略作戦は疑問の余地なく実施されるべきではなかった。」と辛辣な評価をしている。また、ダグラス・マッカーサー元帥は、海兵第1師団の上陸直前に「海兵隊諸君の勝利は、フィリピン上陸作戦の成功をより確固たるものにするはずであり、私は海軍ならびに海兵隊諸君らの作戦に全幅の信頼を置くものである。」と録音にて全軍に演説した程に作戦当初は入れ込んでいたが[111]、回顧録では自らの南西太平洋部隊のモロタイ上陸とニミッツ提督の中部太平洋部隊のペリリュー上陸が1944年9月15日に同時敢行されたことに触れ「わが地上兵力の損害は44人…、この成果をわずかな損害で上げえたことをよろこぶ。<中略>。一方、中部太平洋ではそれほど運がよくなく、パラオ諸島攻略に8,000名以上の死傷者を出した。」と振り返っている[112]。, 一方でステールメイトII作戦の最高責任者であった太平洋方面軍司令チェスター・ニミッツ元帥は「(ペリリュー島の利便が)2,000名の戦死者を含む10,000名のアメリカ軍死傷者に見合うものであったかどうかについては疑問の余地があるかも知れないが、一方、パラオが日本軍の手に完全に残された場合、マッカーサーのフィリピン進撃に対して真の脅威になったであろうことには疑問の余地はない。」とその意義を強調している[113]。, ペリリュー戦で実際に戦った兵士の感想として、負傷したトム・ボイル二等兵は、ペリリュー戦の意義を戦後50年近く経ってから「人生締めくくりの今に振り返ってみるとそれなりに貴重な体験だった。でも惨めな体験でもあった。でも、あまり誰にでも勧められるものではないよ。なぜなら生き残ることが難しいからね」と回想している[114]。, ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から1944年8月にかけて島民はパラオ本島とコロール島に疎開させられたので、戦闘による死傷者は出なかった[123]。, 現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年か)。, 陣地構築にかり出された島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、中川は島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受けたが、中川は「貴様らと一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」と拒否している。島民は、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、ペリリュー島北部のガラコル波止場で疎開のために日本軍が準備した大発動艇に乗り込んだが、大発が島を離れた瞬間、その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきた。中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいた。その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、信頼に足る日本軍人たちであったと理解したという[124]。, 戦後、疎開させられた島民の一部は、南部が廃墟となったため北部に帰ってきて定住したが、戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。, 当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。, 日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている[125]。, 「ペリリュー島の激戦場で、若い日本女性がアメリカ軍海兵隊に機関銃を乱射して86名を殺傷したのちに玉砕した」という伝承がペリリュー島で語り継がれているとされる。それを最初に日本で紹介したのは戦記作家の児島襄とされ、「最後の1兵は女性だった、と語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」という戦記文で、その場に居合わせたアメリカ軍海兵隊員スキー軍曹から目撃談を聞いたバート・尾形という日系人の「彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。そのとき、彼女は機関銃を乱射した。その機銃座の抵抗は激しく、海兵隊の死傷は86人をかぞえた。スキー軍曹も攻撃隊に加わっていたが、あまりにも激しい射撃に斜面にへばりついた」「ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意をひいている間に、背後に迂回しやっと射殺した。勇敢な日本兵に敬意を表すべく近づくと、破れた軍服からのぞく肌の白さに女性とわかり、深い感銘を受けた」という証言を紹介している[126]。その後にこの女性は「ペリリューのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、書籍が出版されたり[127]、伝承に基づいたテレビドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』が放映されたりした[128]。, 児島の調査により、この伝承のモデルとなった女性はコロール島で開業していた一流料亭「鶴の屋」の芸者「久松」と判明している。「久松」は独立歩兵第346大隊長引野通廣少佐と恋仲になったが、アメリカ軍の侵攻が迫り、日本人居留民は日本内地への引揚が命じられると、「久松」は引野と「一緒に死にたい」と言い張って内地への引揚を拒否している。やがて引野は独立歩兵第346大隊を連れてペリリュー島に派遣されることとなったが、「久松」は引野と一緒に行くと引かず、結局引野は「久松」を当番兵として連れていくことにしたという。「久松」は女性をわからないように髪を切り、男物の軍服を着たが、その様子を同じ独立歩兵第346大隊ながらコロール島に残ることとなった中尾清元曹長が見ており、児島に「戦闘帽の下の美しい黒目をうるませて別れを告げた久松の姿が今も目に焼き付いている」と話している[129]。, 歴史家の秦郁彦もこの伝承について調査をしており、ペリリュー島についての著作もある元日本陸軍軍人舩坂弘が取材の過程で、第2海上遊撃隊小隊長の高垣少尉らがペリリュー島のガルコル波止場で上陸しようとしていた「久松」を見つけ、引野と「久松」の関係を知っていた高垣らは事情を察しつつも、「久松」の身を案じて見過ごすことはできないと、すぐにコロール島に引き返すように説得したが、そこに現れた引野が高垣を殴って「久松」を上陸させたという話を、その場に居合わせた高垣の部下将兵から聞いたと著書で記述している[130]。また、秦はコロール島にも赴き、地元のガイドで日系人のイチカワ・タダシからも「久松」に関する証言を得ている。その証言によると「「久松」の出身は不明であるが、「久松」は源氏名で本名は梅野セツであり、色白で丸顔の長髪で身長が5尺(151㎝)ぐらい」「父親ぐらいの将校(引野と久松の年齢差は30歳ぐらい)に身請けされ、その将校を追ってペリリュー島に渡ったという噂を聞いたが、久松の性格なら不思議はないと思った」「身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、誰かにゲートルの巻き方を習い、地下足袋を履いて出陣した」「彼女は機関銃でアメリカ兵を撃ちまくり、重症のまま病院に運ばれて2週間後に死んだとペリリュー島の住人から聞いた」ということであった[131]。, また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属の慰安婦一名が最後まで島に残り、軍服を着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者の飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端の電信所付近(日本軍呼称水戸山)で目撃している。投降後、飯島が米兵に聞くと、手榴弾を投擲して米軍を足止めした日本軍女性兵士の墓という回答があった[132]。ペリリュー島で最後まで生き残った山口以下34名の将兵のなかにも、軍服姿の女性が海岸で釣りをしているのを目撃した者もおり、戦後に捕虜になったときにアメリカ兵から「北地区で最後まで戦って死んだ女兵士がいたそう」という噂を聞かされて思い当たるふしがあったという[133]。, しかし、どの証言にしても伝承の域は超えず、秦はアメリカ海兵隊やその戦友会にも取材したが成果はなく、また、引野と戦死数日前まで行動を共にしながら、引野から、大隊の功績名簿を持ってコロールの司令部に戦況を報告するよう命令されて生還した大隊本部人事係宮本茂夫軍曹の遺稿にも、当番兵として引野に寄り添っていたはずの「久松」に関する話は一切出てこない。引野は「私は祖国のためにペリリューを守り抜いて死ぬ」と断言しており、部下将兵からの信頼も厚く、秦は引野が女連れであれば、ここまで部下将兵に信頼されていなかったのではとの思いを抱いている[134]。引野は宮本をコロールに出発させたあと、1945年9月28日頃に籠っていた水戸山の陣地から出撃して南西中央高地奪還を試みて突撃したが、アメリカ軍の砲火で負傷し、その後に自決したと推測されている[79]。結局「久松」がペリリュー島に渡って戦って戦死したという確証は得られなかったが、「久松」こと梅野セツとコロールで親交があった従軍看護婦が2008年時点で健在ということが判明し、秦はその看護婦から「久松」の写真を入手し、実在については確認している[135]。, 名越二荒之助によれば、パラオ共和国が誕生した時、同島出身の人らによってペリリュー島における日本軍の勇戦を讃える「ペ島の桜を讃える歌」(作詞:同島出身のジョージ・シゲオとオキヤマ・トヨミ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ)がつくられ、今に歌い継がれている[137]。, 名越の記述は舩坂弘著『血風ペリリュー島』(1981年、叢文社)から引用されたものとされるが、舩坂本では「作詞:沖山トヨミ・庄子シゲオ 作曲:同島小学校副校長ウィンティ 監修:舩坂恵子・蜂巣一郎 指導:舩坂弘」と記述され、日本人による「監修」「指導」まで明らかにされているが名越の本では省略されている。なお、舩坂弘の『血風ペリリュー島』は2000年に「ペリリュー島玉砕戦」と改題され出版されているが、ペリリュー島の桜を讃える歌の記述は削除されている。, 「ペ島の桜を讃える歌」は後述サンケイ新聞社の住田良能記者が1978年にペリリュー島を取材した時に記録された「緑の島の墓」(作詞:小学校副校長ウィンティー・トンミ 作曲:妻のアントニア)と曲(メロディー)同じである。1981年「ペ島の桜を讃える歌」は1978年以前に作られていた「緑の島の墓」の曲を使いまわし、作詞は舩坂によってなされたともいわれる[誰?