ブログを報告する, ☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第6夜  2011-12-24 15:03:32, ”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その1 永沢さんの場合――社会事象としての村上春樹・第5夜 2…, ”ノルウェイの森”における親和性の構造と病理――社会事象としての村上春樹・第4夜 2011-12-2…, ヘンリー・ジェイムズのリアリズム論(2013/5) アリアドネの部屋アーカイブスより, ジェイムズと20世紀の文学――ヘンリー・ジェイムズを読むと云う”事件”(2013/5 ) アリアドネ…, 花を探しに・・・・・ ”秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず”――式部と潤一郎、康成そして兼好 アリアドネ・アーカイブスより. そう言ってレイコは、亡くなった直子のためにギターで何曲もの歌を弾きます。 その中には、直子の好きなビートルズの『ノルウェイの森』も含まれていました。 そして最後に、ワタナベは直子の服を着たレイコと寝るのです。

hanasaku. 『ノルウェイの森』と遠藤周作『沈黙』――ある60年代の戦前・戦間・戦後2012-11-04 08:24:58テーマ:文学と思想 村上春樹の文学を論じようとして感じる困惑感は彼の文学に対してではない。何かタブーのように“王様は裸である”と主張しえない目に見えない管理の操作性がある。 2020 All Rights Reserved. ☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第2011-12-24 15:03:32テーマ:歴史と文学 小説というものには読み方が二通りあって、一つは作者の構想を ”求められる解” としそれを読者が再現的に構築しようとする場合ですね。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 結末までネタバレ込みで、できるだけ簡単に『ノルウェイの森』のあらすじを書いてみようと思います。あらすじだけ読んでも、この小説のすばらしさは一切損なわれないし、この小説のすばらしさに1%も届かないので、あらすじをご覧になったあとは、ぜひ本編を読破してみましょう。, さて、この小説は、ハンブルク空港を降り立った主人公の回想から始まります。過去を思い返す、という体裁なのですね。, 主人公は、「僕」である「ワタナベ」。主要な登場人物は、「直子」「キズキ」「突撃隊」「永沢」「緑」「レイコ」……ですかね。主には、「ワタナベ」と「直子」にまつわる物語です。, 主人公は、都内の大学の演劇科に通っていました。寮住まいで、たくさんの大学生が暮らしていました。元々は神戸にいたのですが、進学を機に東京に出て来たのです。, ある日、主人公は直子と再会します。偶然電車の中で出会いました。出会った二人は、何の大事な用事もなかったものですから、電車を降りることにしました。, そこから、直子はひたすらに歩きます。異様なほどに歩きます。久しぶりに会った直子は、体重がぐっと減ったようでしたが、それは病的なものではなく、むしろ自然な美しさだと主人公は評しています。, それから、毎週のように主人公と直子は会うようになります。さて、主人公と直子はどういう関係なのか。神戸時代の主人公の親友が直子の元カレなのです。その元カレが「キズキ」です。彼はある日突然、自殺をしてしまったのでした。, やがて、直子と会えなくなり、彼女から一通の手紙が届きました。彼女は、京都の山奥の病院というか施設というか療養所というかに入ることになりました。その施設は、一度出たら二度とは戻れないのが規則となっていました。, それから、会えない間に、主人公は年下の緑という女性と知り合います。緑には彼氏がいて、主人公には直子がいて、お互いに愛する者を別に抱えつつも、互いに気の置けない存在というか特別な友人として信頼し合っていきます。, しばらくしてから、直子から会いに来てほしいと主人公の元に手紙が届きました。彼は京都まで出向くのです。, その療養所で出会ったのが、「レイコ」さん。音楽療法を皆に施しつつも、彼女もまたその施設での患者なのでした。レイコは直子とルームメイトで、二人は互いに支え合いながら幸せそうに暮らしていました。, 直子はその施設でとても落ち着いており、回復に向かって歩いているように見えました。そこでしばらく過ごし、主人公は再び東京に戻ります。, そして、主人公は寮から出て一人暮らしをするようになります。そこで、主人公は直子と暮らしたいのだと手紙を書きました。, 彼は、毎週のように直子に手紙を書きます。返事が来ることもあれば、来ないこともありました。, 回復すると思われていた直子の回復は、どんどん遠のいていきました。精神状態をひどく崩し、ついに施設から一度出て、病院で集中的な治療を受けることになりました。, その間に、「ワタナベ」は緑との仲を深めていきます。しかし、直子を守るのだという強い意志がありました。それでもやがて、彼は揺らぎ始めて、レイコさんに手紙を送ったりします。, 主人公が強く祈ろうとも、レイコさんが強く願おうとも、直子は自殺しました。その痛みから、主人公は一月ほど放浪の旅に出ました。, 東京に再び主人公が戻ったのち、直子が死んだときの話をしに、レイコさんが施設から出てきました。二度とは戻れない施設から出て来たのです。直子の死の前に最後にあったのは、レイコさんなのでした。, 主人公にすべて話し終えた後、レイコさんと一緒に、彼女のための葬式を二人きりで行います。ワインを注ぎ、ギターを弾いて歌を歌う。本物の、さみしい葬式ではなく、ささやかながら温かな葬式を二人で行ったのです。それから、二人はセックスをしました。, 主人公は、緑に電話を掛けます。君と付き合いたいということを告げるのです。緑は聞きます。「あなた、今どこにいるの?」, さて、あまりに有名過ぎる小説のため、たくさんの人に読まれた本作ですが、凄まじく賛否両論分かれる小説ではないかなと思います。, というのは、『ノルウェイの森』というのは、非常に繊細な魂を抱えたラブストーリーだと僕は思うのですが、一見すると、直子が好きなくせにホイホイいろんな女の子とすぐ寝る、セックスしてしまうので頭がおかしいようにも思えますね。, 直子からの電話を待ってるくせに、永沢といういけ好かないエリート男と一緒に街へ繰り出し、女の子をひっかけては寝るという。直子のこと、愛してないやん。としか思えません。こんな奴に愛だの恋だの語られてたまるか、お前のせいで直子は死んだんちゃうんか、とも思えます。, まあ、そうとしか思えないのもまた事実なのですが、村上春樹の作品においてセックスというのは結構重要な意味を持っていまして、互いを補完し合うというか、深く通じ合う、わかり合う、本作でいうところのすなわち互いに「回復」するということと同義なわけです。, 『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』という対談集があるんですが、そこで肉体と精神の間にあるのがセックスだみたいなことを話されています。, 「ものすごく女の子と寝たくなるんです」というワタナベくんの台詞は、これすなわち僕は猛烈に精神に不可解な傷を負っています、ということの顕れなのです。, その対比として永沢という男がいるわけですが、彼は精神に不可解な傷はないんですね。彼にとっては、ゲームなんです。同じように女の子と寝たいんでしょうけど、ちょっと主人公とは出発点が違うんです。だから、互いに惹かれ合いつつ、互いに離れていくんですね。, 本作、よくよく読んでいただきたいのですが、結局本当に愛したい人とはなかなか寝ないんですね。また、直子のことを想えば思うほど、誰とも寝なくなっていくんです。結局、彼の不可解な傷は他社からは癒えないんですね。, だから満たされないままだったりですね、回復しないままである、ということがどんどん浮き彫りになっていく。というような構図になっています。, なので、たくさんの人と寝てはいるけれども、ついに分かり合えない、補完できない。孤独を抱えたままである、という状態なので、主人公はとてもかわいそうで、抱かれる女の子もまたかわいそうなんです。悲しい話なんです。, まあ、そういわれても感覚的に気持ち悪いという人は気持ち悪いでしょうけども。特に女性は。男は男で、うらやましいなとちょっと思ったりはします。ちょっとですよ。, というのが、本作を流れる根幹たるテーマなのはご一読いただければわかるかと思います。割と冒頭に、太字で出てくるくらいですからね。僕らは死から逃れて生を生きているのではなく、死を日々吸い込みながら生きている。生の中に死がいつだって潜んでいる。, キズキという親友の死が、ワタナベをそういう思想にいざないます。そしてまた、直子もそうなのです。身近な人間を喪った時に、人はどうやって再生し、回復し、生きていくのか。ワタナベも直子もそれは同じなのですね。どう再生するか、し合えるか、どのようにこの死を内包した生を生きていくか。という物語なのですね。, 緑は、直子との対比として現れます。しかし、彼女も母を亡くしており、作中で父が亡くなるのですね。彼女もまた、死が生の一部として存在する世界を生きています。, それでも、彼女の受け取り方は何というか、しなやかというか逞しいというか、か弱いのですがどこか力強く生きていこうとしています。死の方へと吸い寄せられていく直子とはちょっと違うのですね。その吸い寄せられていく直子を何とか引っ張り上げようとワタナベは頑張るのですが、緑に惹かれていくのは、ワタナベ自身の死への捉え方が変わってくるからなんですね。, キズキの死と同じ死だとしても、緑の父親の死とは受け取り方が違うんです。それを咀嚼してから、二人は猛烈に逞しくなり近づき合っていくようにも思えます。, 生だの死だのとは全く別次元のところに彼はいます。割り切って生きるタイプの男ですね。永沢もワタナベも全く違うと思いつつも、どこか似ているところを感じて互いに信頼を寄せるというとちょっと違うかもしれませんが、この共通点は何なのかというとですね、他者との距離なんですね。, どこまで行っても、他者に触れられない。他人と一番深いところで交わることができない。そこにある溝に気付いている。だから、平気で女の子もどんどん寝れちゃうわけですね。, 永沢さんの方はそれに自覚的で、だからこそ、ゲームのように才気を発揮し、そのうえで自分が上に行く方法を目指していきます。一方のワタナベはそれをしない。無自覚であって、何とか他者に触れようとする。触れられないとしても、もがこうとする。だから、直子を救おうともするし、永沢さんの彼女のハツミさんにいろいろ話をしたりもする。, 本作最大の評価の分かれ目は、最後にレイコさんと寝るところだと思います。なんでやねんと本を投げた人もたくさんいるでしょう。, 二人は、直子の死を前にして、最後互いに回復し合わなければならなかったわけですね。回復するかどうかはともかく、回復する手立てを互いにとらざるを得なかったんです。そうでもしなければ、また死を内包する生を生きていけなかった。, 心情的にこの本を読んでいくとどんどん嫌悪感が湧いてくるかもしれませんが、そういう風に読めるわけです。そういう物語なんです。, 他者との隔たり、この、どうにも埋まらぬ差、というのを村上春樹というのは初期に一杯描いてきてまして、デタッチメントと呼ばれるんですが、本作『ノルウェイの森』はそのデタッチメントを描いた最高点作品となります。, そのデタッチメントへの反抗というのが、セックスとして現れています。それが、村上春樹としての他者に一番近付く方法として使われてるのですね。, ところで、村上春樹という作家は、よく井戸に入るシーンを描く作家なんですが、本作では井戸は序盤に少し出て来るだけです。, 村上春樹における井戸というのは、イドのことです。心理学でいうところの、無意識ですね。本能、感情、過去の記憶が渦巻く、表面に現れない深層心理です。, この井戸に入っていくことで、無意識下に降り、他者との隔たりを越えられるのではないか、というのを後に実施していきます。これは、デタッチメントとは逆にコミットメントと呼ばれます。『ねじまき鳥クロニクル』とか『騎士団長殺し』とかはコミットメントの小説なのですね。, というようなわけで、まだ村上春樹が井戸に潜る前、他者に触れられないという、どうしようもない悲しさ、虚しさが『ノルウェイの森』には詰まっているわけです。その辺りを感じるかどうかで賛否両論が分かれるんじゃないかなと思います。, さて、『ノルウェイの森』はビートルズの『Norwegian Wood (This Bird Has Flown)』からきています。冒頭の空港で鳴り、過去にはレイコさんが歌っていた直子の好きな歌ですね。まあ、京都の療養所を『ノルウェイの森』と表現しているのでしょう。, この元ネタの歌のタイトル、調べて知ったのですが、これ日本語訳は誤訳なんですね。『ノルウェイの森』ではなく、『ノルウェイの木』が正しいそうです。それはダサくてタイトルにならないけど。, ビートルズの曲の歌詞の中では、一人の女の子と会って、別れるというか置いて行かれる一人の男が描かれています。, ステキな部屋でしょ? ノルウェイの材木でできてるのよ。みたいなところで”Norwegian Wood“という表現が歌詞の中に出てきます。, ふしぎな浮遊感、つかみどころのない彼女、取り残される”僕”……。というようなところにも共通点が見られますね。誤訳はさておき、素敵なタイトルだと思います。, 2010年にはこのベストセラー小説はベトナム出身でパリ育ち、『青いパパイヤの香り』や『シクロ』の監督を務めてきたトラン・アン・ユン監督によって『ノルウェイの森』は映画化されました。, 主演は松山ケンイチさん、「ワタナベ」ですね。ヒロイン直子を演じたのは菊地凛子さん。緑は水原希子さんで、永沢は玉山鉄二さん、キズキは高良健吾さんが演じました。, とても映像の美しい作品で、『ノルウェイの森』の持つ空気感が表現されていて素敵です。素敵ですが、何でしょうね、現実と夢を行き来するようなファンタジー感、メタファーのオンパレードの村上春樹作品をそのまま映像化すると、案外こう大事なものがこぼれていくような気はしました。, 原作に忠実でとても好感の持てる映像化なのですがね。『ノルウェイの森』が好きな人ほど、好き嫌いが分かれるかもしれません。まあ、映画だけ見たという人も原作をぜひ読んでみてください。, 俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ。俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。, ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編 前 1 火曜日のねじまき鳥、六本の指と四つの乳房について 後 3 加納マルタの帽子、シャーベット・トーンとアレス・ギンズバーグと十字軍 『火曜日のねじまき …, ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編 前 4 高い塔と深い井戸、あるいはノモンハンを遠く離れて 後 6 岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか レモンドロップ中 …, 『ねじまき鳥クロニクル』第一部は、一九八四年六月から七月にかけての物語だ。村上春樹は、1984に何か思い入れがあるのだろうか。何かで言及されているかもしれない。 1984年は、村上春樹35歳である。も …, 前 2 満月と日蝕、納屋の中で死んでいく馬たちについて 後 4 高い塔と深い井戸、あるいはノモンハンを遠く離れて 加納マルタの帽子、シャーベット・トーンとアレス・ギンズバーグと十字軍 岡田亨 この章で …, ねじまき鳥クロニクル 第1部 泥棒かささぎ編 前 6 岡田久美子はどのようにして生まれ、綿谷ノボルはどのようにして生まれたか 後 8 加納クレタの長い話、苦痛についての考察 この章では、過去からふたた …. Copyright© 本・映画「ノルウェイの森」の衝撃を伝えたい!【感想・ネタバレあり】 2020年2月4日 2020年2月6日. ☆”ノルウェイの森” を廻る二人の悪党 その2 レイコさんの場合――社会事象としての村上春樹・第2011-12-24 15:03:32テーマ:歴史と文学, 小説というものには読み方が二通りあって、一つは作者の構想を ”求められる解” としそれを読者が再現的に構築しようとする場合ですね。これは作品と作者との間に一定の関係が認められる、近代に固有の読み方です。  もう一つは、作者が知られていない場合や古典などに適用するよう方法ですが、作品もまた作者自身の恣意を離れた独立的存在であるならば、作品そのものに描かれたままを読んで行こうと云う方法です。 そしてここに第三の読みという方法が可能とするならば、通常物語の外側に想定される語り手や作者その人をも物語の複眼的な語りの中に介在させて、登場人物が一方的に語られるだけでなく、作者その人や語り手そのものをも登場人物の一人とみなして、小説世界と現実の世界の相互貫入と相互批評を成立させようとする、メタレベルの読み方です。この読み方はテクスト批評の厳密性に関わる問題がありますので、学問やきちんとした文芸評論にはなりえないことは言っておかなければならないでしょう。つまり戯作であり、遊びと諧謔とユーモアと、そして一片の夢を秘めた読み方なのです。, 要はこの第三の読みを適用して、阿美寮のレイコさんが大悪党である由縁を証明してみたいのです。これは半ば冗談のつもりですからあまり真面目に取らないでください。, 京都北部の山間に方位が想定されている阿美寮なる精神保養施設が ”魔の山” であることは自明のことでしょう。事実ワタナベ君がこの場所に二泊三日の小旅行を企てて持参する書物は、マンの ”魔の山” なのですから。村上春樹という人は真面目だか不真面目だか分からにところがありますが、この場面がマンの高名な小説を踏まえていることについては自覚的なのですね。, さて、この大悪党レイコさんなのですが、人の痛みが分かるこの上ない善人として紹介されるのですね。そこのところはこうです。――, ”とても不思議な感じのする女性だった。顔にはずいぶんたくさんのしわがあって、それがまず目につくのだけれど、しかしそのせいで老けて見えるというわけではなく、かえって逆に年齢を超越した若々しさのようなものがしわによって強調されていた。・・・(中略)・・・年齢は三十代後半で、感じのよいというだけではなく、何かしら心魅かれるところのある女性だった。僕は一目で彼女に好感を持った。”, ここには村上春樹特有の言い落しがあって、言外を読まなければなりません。ここでは二十歳前の青年が感じたことと、37歳の語り手が語る眼差しの即物性を同時に読みとらなければなりません。音楽に堪能なこの歌姫は聴かれもしないのに自らの秘密の過去を語り語り手 ”僕” を誘惑する。魔の山でヒロインの直子の死を確認したのちは、頼まれもしないのにワタナベ君の自宅に押し掛け立川流ならぬ秘儀を開陳するに至る。ここではレイコの全身を覆う皺が同時に女性特有の秘められた場所の襞と意図的に混同して語れいかがわしさは頂点に達するかのようです。つまりこの妖怪は全身が性器に覆われていた、というのですね。水木茂の百眼を思い出して不快感に身振るいしてしまいました。, 小説 ”ノルウェイの森” はレイコさんの ”東京初登場” を待っていよいよクライマックスである黒魔術ならぬ通過儀礼の夜を迎えます。ここでも二十歳前の青年の眼と三十代後半とされる闇夜に光る冷徹な視線を同時に読みとらなければなりません。後者の眼は同時に37歳の男の眼でもあります。このエピソードはフランス文学などでおなじみの年上の女性による性の通過儀礼というように読めます。つまり誰にでも好かれるエブリーマンとしてのワタナベ君はフランス文学風の仮構されたフィクションを可憐に演じるかのようですね。いっぽうその演技と重なるように37歳の視線の冷徹さそのままにそのものが即物的に演じられます。この二重性がもたらす頽廃というかおぞましさは類例がありません。何のことはない、この二人は最初の出会いの時から37歳の眼でお互いを確認しあっていたのである。そのありふれたレベルの低い行為を高度の文学的に華麗な描写や形而上学的な宗教的秘儀性において語る所に村上春樹の頽廃があるのです。, 例のレイコさんの打ち明け話にしても言外を読まなければならないのではないでしょうか。これは実際にあった話なのでしょうか。幾つかの”ノルウェイの森”論に目を通しましたが、レイコさんの嘘に言及した論考には見当たりませんでした。 これは造られた過去であるという気がします。単なる嘘というのではなく、過去の傷口を舐めるかのように幾度となく繰り返された作為が、その人そのものの存立の基盤となって、人格を成り立たせる由縁、人格形成そのものと融合した状態の状態なのです。造られた過去が仮に実在していたとしても、奇妙に響き合う二つの存在の間に感じる、存在の近さというものは尋常のものではありません。自他の境界が失われ、それを自閉の文学とは言うのですが、それを標榜する村上春樹の文学において登場人物同士を繋ぐ、この存在の近さは、精神病理学で言う、他性、つまり他の人格が侵入して他性が自らを語り、自らの存在が外に筒抜けだと感じるあの感じ、統合失調症と呼ばれる事例に似た感じがするのです。, 統合失調症における、作為され妄想された幻想性を帯びた世界は、逆に荒唐無稽ではなく、一般向けのテレビドラマの水準に近づくといいます。まるで厚みのない安でのドラマのような感じがするのです。その薄っぺらな虚偽と妄想性が同時に統合失調者の置かれた抜き差しならぬ状況と併存する時にそれが示す奇妙な非対称性、深刻さと通俗性の併存と云う摩訶不思議さの構造があると云えるのです。精神病理の世界と云うと、何か常人とは違った途方もない幻想性を想像する方もいらっしゃるようですが、実際にはこの上ない通俗性と極端なリアリティの感覚が同時に感じられる奇妙な非対称性が齎すリアリティの二重性にあるのです。村上春樹の文学における通俗性と云う特色、と自閉や精神病理学的傾向とは、厳密とも云える関係があるのです。, 人と人との関わりが失われて自閉という段階にいたり、自閉が核の外殻をうしない自他の融合という状態にいたった時、統合失調症における、他性、が生まれます。いわば言語という外皮に覆われる何ものをも失われ、”ものそのもの” となる。”ものそれ自体” という発想こそ、如何に神秘めかして語ろうとも資本主義的な流通機構がもたらした思惟の冷徹さの表れなのです。, ”ノルウェイの森”の小説としての卓越は、自閉の文学として評価された通常の一般的理解を越えて、自閉の世界の構造そのものの崩壊を、作者の意図に逆らって描き出した点にあったのかもしれない。それは限りなく不快でおぞましいものでした。神秘的であると同時に陳腐の極みとも云えるものでした。他性と自閉の世界においてはものごとは極端に単純化に向かうと云います。村上文学の平明さと語りの易しさはここらに理由の一半があるようにも感じられるのです。, 追記: 村上春樹の小説に見られる語りの平易さや通俗性の秘密が、実は作者の恣意を超えた精神病理学的な構造に由来することを書いてみました。批評家によっては、村上春樹の小説を規定する精神病理的な現象を遂一最新の精神病理学的な学説を駆使して証明する労作?もあるようですが、痕跡があるのは当然なのです。むしろそれらの論者が思い違いをしているのは、村上春樹の小説が最新の精神病理学的な事実と整合し符号することを持って、なにかそこから文学固有の問題が帰結できたかのような錯覚に陥らせていることです。文学と精神病理学とは異なります。村上春樹の小説にある通俗性が精神病理学的な事象と密接な関係にあることをこの論考では証明したかったのです。精神病理学的な事象が同時にこの上な通俗性、平板さ、内容のないこけ脅かしの精神病理学的空虚さと極めて高い相関関係にあるのです。村上文学の語りの平易ざとは、必ずしも作者によって意図されたものではないのです。村上春樹の小説が通俗的であると云う理由で批判しているのではないのです。この点誤解なきよう!, TH0320さんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog